2019/02/09 20:19
できたばかりの新作をもって甥っ子のうちに遊びに出かけた。
はじめてみる苔玉をふってみたり、掴んでみたり、LEDライトをつけたり消したりと、かれは実に多彩な反応を見せてくれた。

偶然にせよ、意思をもってにせよ、今までふれることのなかったものにふれ、苔玉を愛でているかのようにみえるそのふるまいをみていると、「この小さなできごとはかれにとって学びになるかもしれない」
きっと植物に触れることで、豊かな感性を育て、いきものを育てることの大切さを学ぶことができるのではないか。
いかにも大人らしいことを考えていると、わたしは慌てて心の中でかき消した。

ひとは事象に対して掘り下げ、分析をしては、さもあらんな結論をもとめがちだ。
ただの偶然だとしても、ことがおこればなにか良いきっかけになるのではないか。
相手が近親の幼い子どもであればなおさらだ。
けっして悪いことだとは言えない。しかし、それはわたしの一方的な感情の押しつけになってはいないだろうか。
ふと考えを改めたくなったのである。

ひとがひとに物を教える。
ましてや学びをあたえるなどということは、本来はとてもおこがましいしことであって、ゆえに尊いものではないかと思う。
なんだかはずかしい気持ちになった。

ただただ苔玉を手にしながら、遊んでいるかれがたのしそうにみえる、おもしろそうにしてくれている。
それで十分じゃないか。
そう思うとたまらなく嬉しい気持ちが押し寄せてきた。
何に囚われることなく、かれはまず今起こっていることはおもしろく、たのしい。そしてそれをみているわたしの心は潤っていく。
「なにも足さなくていいんだよ」気がつくと、むしろわたしがかれに学んでいたのだ。

今日も、読みに来てくれてありがとうございます。
ひとがいだく嬉しい気持ちに、小難しい思考やこだわりは、どうも邪魔なようですね。
+MOSS light LED/苔玉ライト